初めての感触

「感覚」という事に気付いたのは20代後半辺りだ。

私自身が手のひらで感じている感じに「あれっ」と思った事がキッカケだ。
それは多分、私自身が生まれて初めて、どんな誘導もない状態で感じたことだと気付いたからだ。

誘導というのは、例えば、美味しいとか塩っ辛いとか、熱いというような、最初に言葉ありきで感覚された事から、独立した感覚だと気付いたのだ。
これは衝撃的だった。
言葉や周囲によって作られてしまった何かによって、感覚されていることと言葉が同じだと思っていた。
というよりも、そんなことに気付きもしなかったからだ。
だから、「これ熱いやろ」「ほんま熱いな」というように、感覚されていることは共有されていると信じ込んでいたといっても過言ではなかった。

しかし、そういったものではない感覚を知覚した時、あるいは認知した時に、そういった「感覚」にまつわる事が全て理解できたのだ。
感覚されていることは共有できない、全く個人的なものだということを。

生まれて初めて「感覚」されていることが、言語から独立している事に気づかしてくれたのだ。
これには、それこそ狂喜乱舞した。
これは、相当おもしろい発見だった。

その事が「言葉」と実体の間には溝がある事を教えてくれたからだ。

どれだけ実体に近い言葉を使えるか、それはそこから始まったのだ。
そして、その「感覚」が言葉を作り出していったのだろう、と気付いたのだ。

古の昔、人はその状況で何かを感じた。
それを何とか誰かに伝えたいと思った。
あるいは、自分として記憶したいと思った。
また、何かに残したいと思った。
そこに、その感覚を言葉にする努力が始まったのだろう。
という推察だ。
もちろん、これには相当の時間差があるだろうし、時間も前後するだろうが、いずれにしても、古の人達の作業の賜物が言葉なのだ。
その古の人の苦労を、今味わえる幸せは、正に歴史の中に生きているということを、その時に実感させてくれた。


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